質量分析では測定対象分子の分子量を決定することが重要であるが、イオン化の操作が激しすぎると、分子が壊れてしまい分子ピークが得られない。その結果、得られない分解生成物(フラグメントイオン)のピークから分子を構成する官能基などの情報が得られるものの、以下に温和な条件でイオン化するかが質量分析法では重要である。歴史的には、電子線を分子に照射して、電子を叩き出す電子衝撃法に始まり、化学イオン化(CI)法、高速原子衝突(FAB)法に展開した。一方、微量元素の分析を目標とする無気分析では、酸素化物などの化合物イオンピークの生成を抑えるために、高エネルギーでのイオン化を行う必要があり、激しいイオン化を伴うイオンビームを用いる二次イオン質量分析法(SIMS)や誘電結合プラズマの生成を用いるICP-MSが開発されている。
電子衝撃法:EI(electron impact ionization)法
試料に加速した電子をぶつけ、その衝撃で電子を叩き出してイオン化する方法である。最も初期に用いられた方法であり、現在も広く用いられている。電子を叩き出すために必要なエネルギー以上の電子線を照射するために分子イオンが分解しやすく、分子ピークが得られにくいという欠点がある。
化学イオン化法:CI(chemical ionization)法
化学イオン化法は比較的ソフトなイオン化法であり、CI質量スペクトルではプロトン化分子のピークが優勢であることが多い。化学イオン化ではEIイオン源にメタン、イソブタン、アンモニアなどの試薬ガスを1=10Torr(試薬に対して大過剰)導入し、試料分子と反応してプロトン付加あるいは水素化物イオン引き抜きによるイオンを生成させる。例えばメタンの場合、電子が衝突して$\rm CH^{+・}$や$\rm CH_3^+$が生成し、更にそれらが$\rm CH_4$と反応して$\rm CH_5^{+}$や$\rm C_2H_5^{+}$が生じる。
これらの試薬イオンと試料分子との間で、プロトン移行反応、あるいは水素化物イオン($\rm H^-$)引き抜き反応が起こり、試料分子の一価の正イオンが生成する。
$$\rm CH_5^++M→[M+H]^++CH_4(プロトン付加)\\
\rm C_2H_5^++M→[M-H]^{+}+C_2H_6(水素化物イオン引き抜き)$$そのため、分子イオン$\rm M^{+・}$は観測されないが、分子量は$\rm [M+H]^+,[M-H]^+$にから容易に知ることができる。ほとんどのGC-MSにはこのCIに対応しており、EIでは分子量を決めるのが困難な場合でも分子量を知ることが可能である。
フィールドイオン化法:FI(field ionization)法
フィールド脱着法:FD(field desorption)法
FI法では高電圧を印加した電極近傍に試料ガスを起き、トンネル効果によって電子を試料から奪い取る。電子を奪われたイオンは電極との反発によって加速されて分離検出系に移動する。
FD法は同様の過程にて電極表面に塗布した試料をイオン化脱離させる。トンネル過程によるイオン化であるため、温和にイオン化が進行する半面、イオン化の度合いが小さため信号強度が小さいという難点がある。
エレクトロスプレー法:ES(electrospray)法
サーモスプレー法:TS(thermospray)法
エレクトロスプレーイオン化法はソフトなイオン化法である。試料溶液は数kVの電場を介してノズルから噴霧され、インターフェイス内の対抗するオリフィス(細孔)まで導かれる。加熱ガスの流れにより帯電液滴は徐々に脱溶媒し、液滴は次第に縮小し、細分化して最後には試料化合物の帯電粒子(及びそれに溶媒クラスターが付加したイオン)となり、質量分析計に入っていく。一般的に、塩基性化合物はプロトン化されて正イオンになりやすく、酸性化合物は脱プロトン化により正イオンを生成しやすい。装置の中には測定中に電場の磁場の極性を高速で切り替えることができるものもあり、1回の分析で正負両イオンを同時に観測することができる。
ESIによるイオン生成には溶質が液滴の表面に移動し、そこで電荷を受け取る必要がある。そのため、界面活性の高い化学種は(例えば脂質など)優先的にイオン化される。逆にいうと、そのような物質と共存する系での分析成分のイオン化は抑えられてしまうということである。複雑な混合物のESIーMS分析ではこのようなマトリックス効果がよく現れるため、イオン強度の校正などにより適切に対処する必要がある。
また、ESでは分子の質量が大きくなるに従って電荷の数が増加し、多価イオンが生成するので、タンパク質などの巨大分子を分析できる大きな利点を持つ。例えば、上限2000~3000Da程度の質量分析計の質量範囲を大きく超えるような高質量化合物でも$m/z$の電荷数$z$が増加するので測定が可能になる。
サーモスプレー法も熱でイオン化するので、同じようなものである。
イオン衝撃法:IB(ion bombardment)法
高速原子衝撃法:FAB(fast atom bombardment)法
電子を加速して試料に照射するEI法で電子の代わりにイオンを用いるのがイオン衝撃法である。加速したイオンを用いると電子を用いるよりも効率よく試料をイオン化できる。主に無機物の表面原子を二次イオンとして分析する方法,二次イオン質量分析法(SIMS:secondary ion mass spectrometry)として用いられている。SIMSは金属表面に塗布した有機物試料の質量分析にも利用できる。FAB法ではIBIBO法で用いる加速したイオンと原子間の電子交換を通して原子状態に戻した高速原子を試料にたたきつけてイオン化する。高速原子としてはキセノンなどの希ガス元素がよく用いられる。高速原子を用いると絶縁性の有機分子でも帯電が防ぎながらイオン化できるため、特にタンパク質などの高分子量の有機物試料をイオン化する方法として広く用いられている。実際には中性原子に戻さなくても質量分析ができるため、$\rm Cs^+$などのイオンビームも用いられる。この場合は手法としてはSIMSとまったく変わらない。グリセリンなどの液体をマトリックスとして使用するため、液体SIMSとも呼ばれている。
レーザーイオン化法:LI(Laser ionization)法
LI法では、高出力レーザーを試料に照射してそのエネルギーしてそのエネルギーで試料をイオン化する。近年、レーザーの出力が上がり、波長領域も拡大したため、イオン化法として利用されるようになってきた。特に高出力パルスレーザーを用いると、数$\rm ns$の短時間に大量のイオンが生成するため、飛行時間型質量分析計と組み合わせるのに適している。有機物の分析では温和にイオン化する必要があるため、光を吸収しやすいマトリックス中に試料を混合し、イオン化したマトリックス分子とのイオン反応で試料をイオン化するマトリックス支援レーザーイオン化(MALDI)法が用いられる。
誘導結合プラズマ質量分析法(ICP-MS:inductively coupled plasma mass spectrometry)
アルゴンなどの不活性気体に対して高周波の電流を流すとプラズマが発生する。このプラズマ中に試料を導入すると9000Kほどの高い温度まで試料が加熱され、化学結合が寸断されて原子状態に戻るため、主として原子発光法に用いられてきた。このプラズマ中では試料が原子状態に戻る以外にイオン化も起こるため、生成したイオンを質量計に導入することによって微量元素の定量が可能である。この手法がICP-MSであり、原理的に有機物の構造解析には用いられていないが、水道水中の微量元素の分析などに広く用いられている。ICP-MSによる微量金属元素の分析では、酸化物などの分子イオンピークによる妨害が問題となる場合があるため、測定条件の決定は慎重に行う必要がある。
参考文献)北森武彦・宮村一夫 「分析化学Ⅱ」 丸善出版 pp153~156