電子は、原子核周りの運動による角運動量の他に、電子内部構造に由来する固有の角運動量、スピン角運動量を持っている。電荷をもった電子が角運動量をもっているということは、電荷が回転運動していることに対応し、あたかもコイルに電流を流したときのような効果が現れることになる。すなわち、スピン角運動量の存在により、電子は微小な電磁石としての性質を持つことになる。
外部から磁場をかけると、この微小な電磁石のエネルギー状態はスピン角運動量の方向と外部磁場の方向の関係によって当然変わってくる。ちょうど磁石に磁石を近づけたときのように、地場の方向に対して、微小磁石が同じ向きか逆向きかでエネルギー状態は全くかわってくる。実際、スピン角運動量の方向によって、2つの準位(低エネルギーの状態を$α$、高エネルギーの状態を$β$とする)に分裂することがわかっている。この両状態間の遷移に伴う電磁波の吸収を測定するのが、電子スピン共鳴法(=ESR、また常磁性共鳴吸収=EPRとも呼ばれることがある。分野によって呼び方が異なる。化学分野ではESRの方が多い。物理分野ではEPRの方が多い。)である。両準位間のエネルギー差はかける磁場の強度に比例する。また、磁場が大きいほど$α$と$β$状態間の状態分布の差も大きくなるため、信号強度が大きくなり、感度が向上する。そのため、ESRの測定には強磁場が用いられる。また、ESR信号が観察されるのは、不対電子をもつ常磁性の化合物だけである。というのは、同じ量子状態を複数の電子が占めることはできない(パウリの排他原理)ため、スピン角運動量の方向が逆向きの電子同士がついになった状態(反磁性)から、一方の電子スピン角運動量の方向を変えることができないからである。もしそんなことが起きれば、同じ量子状態に2つの電子が存在することになってしまう。
不対電子を持つ化合物としては、有機ラジカルや金属錯体があり、ESRスペクトルはこれらの化合物の電子状態を解析するために用いられる。
全くの自由電子であれば、吸収が起こる波長は外部磁場によってのみきまり、一定となる、しかし、化合物中の電子は原子核からの束縛を受けているし、周囲に存在する電子の影響下にもある。特に影響が大きいのは軌道角運動量の存在であり、金属錯体では
、軌道角運動量とスピン角運動量の相互作用によって吸収が起こる波長が大きく変化する。自由電子のスピン角運動量$S$による磁気モーメント$μ_S$を以下のように表す。
$$μ_S=-g_e\f{eh}{mc}S=-g_eβS=γ_ehS\\
\s{β=\f{eh}{2mc}=9.274×10^{-24}{[\rm J T^{-1}]}}$$ $m$は電子の質量、$e$は電荷素量、$c$は光速、$β$は電子の軌道運動によって生じる電子の磁気モーメントの最小単位(ボーア磁子)、$g_e=2.0023$は自由電子の$g$値と呼ばれるものである。$g$値には一般的に軌道角運動量による磁気モーメントとスピン角運動量による磁気モーメントの両方の寄与がある。自由電子には軌道角運動量などないが、物質中の電子には原子核周りの軌道角運動量がある。そのため、物質中の電子の$g$値は一般に自由電子の場合とは異なっており、$g$値の違いが電子の置かれている化学的な環境の違いを反映する。物質中の電子に外部磁場がかかると、スピン角運動量の外部磁場方向成分は、量子化される。その方向を便宜上、$z$方向とすると、スピン角運動量$S$の$z$方向成分$S_z$は$m_s=+\f12(β),-\f12(α)$のみが許される。外部磁場を$H$とすると、磁場によるエネルギー$E_m$は、磁気モーメントとの内積で表される。
$$E_m=-μ_s・H=gβS_zH$$したがって、$m_s=-\f12$から$+\f12$の遷移では、
$$hν=gβH$$を満たす波数$ν$で吸収が観測される。有機ラジカルの$g$値は一般に自由電子の場合と大きく違わないが、遷移金属イオンでは軌道角運動量との相互作用によって見かけ上、大きく変動する。
ESRでは、電子に隣接する原子核がスピンを持っていると、核スピンによる分裂が観測される。この分裂を超微細構造という。これは核スピンが作る磁場の向きにより電子が感じる磁場が変化し、吸収が起こる周波数が異なってくるためである。このことを利用して、不対電子が主として存在する原子核を特定することもできる。
参考)
北森武彦・宮村一夫 「分析化学Ⅱ」 丸善 p140,p141